私が腰を掛けた瞬間、竹中さんの腕が私に伸びてきました。

あまりに突然だったので、私は反射的に逃げようとしてしまいました。
しかし、竹中さんのほうが一瞬早く、私は簡単にその腕に捕らえられてしまいました。
そして、抱きすくめられてしまいました。

あまり体格差のない私たちです。

本気になって逃げようと思えば、逃げられたかもしれません。
けれど、どうしても私はその腕から逃げることができませんでした。

竹中さんの表情を伺い知ることができません。
だからなのかもしれません。

私を抱きすくめている、少し震えている、そして離すまいと力を込めているその腕から、逃げるという選択肢が浮かばなかったのは。

ーきっと、何かに不安を感じているんだー


男の人に抱き着かれているというよりは、迷子になった子供に抱き着かれているような、そんな心境でした。
振りほどくことも、抱き返すこともできずにいました。


どのくらいの時間、そうしていたのでしょうか。
とても長い時間のように思えました。
やがて、竹中さんは腕の力を少し弱め、
けれど私の体を離さないまま、私の顔を覗き込んできました。


子供のようだと思ったけれど、目の前にあるのは、やはり私を捨てたあの男の顔。

私はどんな顔をしたらよいかわかりませんでした。

ーどうして捨てられたのかー
ーどうして綺麗ごとを並べて、ずるい方法で私を捨てたくせに、またこうして会いたがったのかー
ー何故、私は抱き着かれているのかー
ー何故、私は逃げられずにいるのかー


一瞬で、いろんな考えが頭の中を駆け巡りました。
私は竹中さんと目を合わせることができず、またうつむいてしまいました。

ーやっぱりだめだ。これ以上ここにいたら辛くなる。話はまた後で、場所を変えてー

そう思い、私が口を開こうとした瞬間、
私の唇に触れる柔らかい感触がありました。

口づけられていました。

先ほど、一瞬だけ弱められた腕は、力いっぱい私を抱きしめて離そうとはしてくれません。
呼吸もままならないまま、唇も体も離してはくれませんでした。
私は思考がまとまらず、ただただ、そのままされるがまま、口づけられ、抱きすくめられていました。

ーこれ以上ここにいたら、本当に取り返しがつかなくなるー


迷いもありました。
私自身、嫌いで別れたわけではありません。
会いたくなかったと言えば嘘になります。
頭から離そうとしても離れなかったほどに、ずっと脳裏に焼き付いていた存在です。
何もかも嫌な思い出を忘れて抱かれてしまえば、確かにそれもその時は幸せかもしれません。


しかし、このままでは都合のいい存在になってしまうのは明白です。
大事な話とやらも、まだ何も聞いていません。

私は迷いを断ち切るようにして、自分の両腕に力を込め、竹中さんの体を引きはがそうとしました。

けれど、私の動きを察知してか、私が引きはがすよりも先に、竹中さんがようやく唇を離してくれました。
そして体は離してくれないまま、私にこう言葉を掛けました。

「しろってさ、前から思ってたけど、そういうところが本当にかわいいよね。
本当は抱き付き返したいくせに、すぐに強がるところ。」


本当に予想できなかった言葉に、私は言葉を失いました。
私は竹中さんを引きはがそうとしていました。なのに、その動きの裏にある心の迷いは、見透かされていたようです。


けれど、同時に怒りもこみ上げてきました。

ーどこまで自分勝手なんだー
ーどこまで自信過剰なんだー
ー捨てておいて、どうしてそんな物言いができるのー
ーどうしていつも、読まれたくない心の内を読もうとするのー

言葉にせずとも、様々な思いがこみ上げ、私は涙がこぼれそうになりました。

けれど、泣き顔を見られるのが嫌で、けれどこのまま引き下がるのも嫌で、
突き飛ばしてしまいたいけれど、やっとまた会えたのに離れたくもない…。


無意識のうちに、私は竹中さんの胸に自分の額を押し付け、力いっぱい竹中さんのワイシャツを掴み、こう言い放っていました。

「あれだけのことされて、今だってこんなことされて、どんな顔したらいいかわからないじゃない!」

言葉は完全に涙にぬれていたと思います。

「抱きつきたいとか、抱きつき返すとか!そんなこと…!」

私の言葉の途中で、私の言葉を遮るように、私の頭を撫でられるような感触がありました。
そして、頭上から竹中さんの言葉が降ってきました。

「そうだよね。当たり前だよね。しろ、ごめんね。」

突然の謝罪に、私の言葉は完全に着地点を失いました。

ーあの、竹中さんが謝ってる…?ごめんなさい一つ言えなかったこの人が?―

正直、別れを告げられた時でさえ、私は何一つ謝られたとは思っていませんでした。
「申し訳ないと思っている」という趣旨の言葉はありましたが、「こう言っておけば、許してもらえるだろう」という考えがあるのではないかと、そしてなにより、本当に自分が悪いなんて思っていなかったと思います。

なのに、今降ってきた言葉は、本当に、自分が悪いと思って発した言葉のように思えました。
直接面と向かって言われたからなのでしょうか。そこは私にもわかりません。

けれど、私はびっくりして、思わず泣きぬれたままの顔を上げてしまいました。
竹中さんを見つめるその目は、戸惑いと涙でいっぱいだったと思います。


竹中さんは、真剣な面持ちで話を続けます。

「謝っても許されないと思う。
けど、俺はしろともう一度付き合いたい。本当に今までごめんね。」

涙があふれて止まらず、嗚咽だけが部屋に響いていました。
いつの間にか、私は顔を上げていられずうつむいてしまっていました。


ーこの人がここまで言うなんて、本当に反省して、本当に勇気を出して言ってこれているんだろう。きっと、大変な準備をしてきて、大きな覚悟を持って、今こうして言葉を選んでいるのだろうー

かすかにふるえていた竹中さんの腕から、そう感じずにはいられませんでした。
直接言葉にしなくても、私は悟りました。
この人は、この日のために、すべて捨ててきたんだと。


すると、今度はそんな私を、竹中さんがもう一度、力いっぱい両手に抱きすくめました。
そして言いました。


「一人でずっと待っててくれたんだよね。
ありがとう。また、これからもよろしくね。」


言葉が出ませんでした。
忘れようとしたことも何度もありました。
憎んで、恨んでいました。
けれど、結局私はどこへも行けず、時間が止まったままでした。
自分は本当は愛されたかったんだと、嫌でも実感せずにはいられませんでした。


まだ顔を見ることができなかった私は、そのまま竹中さんの背中に腕を回し、
胸元に顔を押し当てたまま、精一杯の力で抱きつき黙って頷きました。

肯定の頷きでした。


「ありがとうね、しろ。」


そう言うと竹中さんは私に顔をあげさせ、再び口づけました。

ーもう一度、信じようー

私は、最後にもう一度だけこの人を信じることにしました。

決して一夜のためだけではない、
これからの二人のために彼が勇気を出してした謝罪と、復縁の申し出を受け入れたのでした。