やがて彼も目を覚まし、それぞれ身支度を整えて、帰路に着くことにしました。

彼は、そのホテルからバスを使って50分ほどのところに住んでいました。
彼は一人で帰れるといっていましたが、仕事で使う道具なのでしょうか…。なぜかその日は大荷物でした。

そこで私は、彼をアパートまで自分の車で送ることにしました。
「私の車ならさ、アパートの前まで行けるし。
そんなに大荷物抱えて帰るのも大変でしょ?」

私たちはチェックインを済ませて、ホテルの駐車場を後にしました。
彼の道案内で、彼のアパートに向かっていたのですが、不意に彼が言い出しました。


「こんなに穏やかな運転する車に乗るの、本当に久しぶりだ。」

「え?」

思わず聞き返してしまいました。

「たまに職場のドライバーさんに送ってもらうこともあるんだけどさ、こんなに安全運転する人いないからさ。
ここの道だって、たぶん80キロくらい出して走ってるし。」


そこは交通量のそこそこある、住宅地の中の幹線道路のようなところでした。
そして、見通しもあまりよくありません。
どんなに急いだとしても、せいぜい50キロくらいしか出せないような道路でした。


「きっと、夜とか人のいない時間に走るから、スピードが出せちゃうんだろうね。」


穏やかに答えました。
もちろん、本当は良くないと思いますが、別に彼が運転しているわけでもないし、何より彼らの住む世界を否定しているような気分になりたくなくて、フォローしてしまいました。

すると突然、彼がまじまじとこちらを見ていることに気づきました。
何か変なこと言ったかな?と考えながら、どうかしたのかと聞いてみました。


「しろってさ、本当に運転できたんだね。」


今まで隣に乗っておきながら、突然何を言い出すのかと少しびっくりしてしまいました。
けれど、よく考えてみたら、それまで都内で会うときには私は新幹線で来ていました。
たとえ話には聞いていても、想像がつかなかったのでしょう。


「意外だった?本当に運転できちゃうのが。」

いたずらっぽく答えてみました。

「そんなことないよ。運転できるのも知ってたし、車が好きなのも知ってたけど、なんか意外な一面を見た気がしてさ。」


確かに、私たちは知っているようで、お互いに知らないことが多かったのかもしれません。

ー知らないことは、これからどんどん知っていけばいいー

そう思いながら、他愛のない話をしながら、彼のアパートの前に着きました。


「ありがとうね。」

「ううん。どういたしまして。また遊びに来るね。」


車中で別れのあいさつを交わしましたが、不意に彼が私の左手を握ってきました。
けれど、何も言葉を発しようとはしません。

私は、不意に、言いようのない不安に襲われました。


ー本当にまた会えるのかなー


一度辛い裏切りを受けた心は、一晩で埋められないほどの傷を負っていました。
私は、意を決して尋ねました。

「これからも、私を彼女にしておいてくれますか?」

目を見ることができず、伏し目がちで言ってしまったと思います。
彼はそんな私に、また突然口づけてきました。

白昼堂々、人通りもあるようなところで…。

けれど、そんなことは頭には入ってきませんでした。

唇を話すと、「もちろん」と笑顔で答えてくれました。


ーよかったー


「ありがとう。嬉しいよ。」


私たちは今度こそ別れの挨拶と、また会おうという約束をして、
彼は車を降り、私は車中から手を振ると、そのまま最寄りの高速道路のインターへと車を走らせました。

彼は、私が見えなくなるまで、アパートの前で見送ってくれました。





これが、最初で最後のドライブになるなんて思いもよりませんでした。
そして、この時が本当の地獄の始まりだなんて、知る由もありませんでした。